星屑記

何気ないことを考えたり、語ったり。

「レッテル」を貼る世界

アルバイト先に、外国人の二人組が来店した。

どうやら自転車乗りのようで、これからサイクリングに行くらしい。

私がすんでいる地域は、自転車乗りにはそこそこ有名なところだ。

イベントが開催されることもあるし、外国人がやってくることも少なくない。

「朝からうちに来るなんて珍しい」と思っていたところ、自分の中にある考えに気付く。

もしかすると私は今、彼らから「日本人」の「飲食店員」というレッテルを貼られているのではないか?

外国人の存在を通して見えてきた「レッテル」を貼られているという考えについて、2つの点からお話したい。

なぜ「レッテル」を貼るのか?

よく聞くのは、学校の制服だ。

「制服を着ているみなさんは、○○高校の代表です。周囲の人に迷惑をかけないよう、気をつけましょう」

みなさんも学生の頃、少なくとも一度は言われたのではないだろうか。

制服はもっともわかりやすいレッテルの一つであり、他には性別、年代、地域などもある。

「レッテル」とは、誰から見ても明らかなその人の構成要素のこと。

私の場合、「女」で「若者」で、「日本」に住んでいる。

例えば、私たち日本人同士はわざわざ「日本人」のレッテルを貼り、相手をとらえるだろうか?

……答えは否。

なぜなら、自分自身も日本人であり、周囲には多くの日本人がいる。

「日本人」というレッテルでひとつに括れるものではないと知っているためだ。

では逆に、「外国人」ならばどうだろう?

私が9月にイタリアへ行った時、視界に入る人間はほぼすべて「外国人」であった。

中でも、学校の先生やホストファミリー、お店の店員などは「イタリア人」であった。

なぜ私は、彼らに「外国人」や「イタリア人」というレッテルを貼ったのか?

簡単に言えば、判断材料が少ないためである。

旅先で出会う相手は限られている。

出会った相手のような人間ばかりなわけがないとわかっていても、その国で連想されるのは自分が触れあったことのある人間だけ。

この時、人間は「レッテル」を貼り、貼られるのである。

つまり、私たちが外国で「外国人」のレッテルを貼るように、日本へやってきた外国人は、私たちに「日本人」のレッテルを貼るのである。

なぜ判断できないのか?

「レッテル」を貼る理由の一つは、判断材料が少ないからだ。

では、判断材料が少ないだけなのか?

もちろん違う。

もう一つの理由は、深く知ることができないためである。

例えば、ホストファミリーとは2週間ともに過ごしたから、そこそこ知っている。

犬や猫を本当の子供のように可愛がっており、おいしい食事を作ってくれる、優しい夫妻だ。

しかし、学校の先生のことは、彼が安くておいしいリストランテを知っていることしかわからない。

BARの店員に至っては、笑顔がチャーミングだったり、時々日本語で挨拶してくれたりしたことぐらいしかわからない。

海外に限らないが、旅行は一期一会が非常に多い。

相手を深く知ることが出来なければ、振り返る時には結局「レッテル」を貼り、振り分けてしまうものだ。

お国柄はあれど、相手を深く知れば素敵な人か、そうでない人かは必ずわかる。

そこには、「日本人」も「外国人」も必要ないのである。

まとめ

最近の例をひとつ。

先日、宝塚歌劇を観賞に行った帰りの電車のことである。

たまたま女性専用車両に乗って席に座ったのだが、隣に座ってきたのがなんとごく普通のサラリーマンの男性。

女性専用車両である。朝だけ夕方だけではなく、一日中のものだ。

周りの女性も、明らかに男性のことを気にしている。

隣に男性が座ることは嫌ではなかったが、「モラルとしていかがだろうか。宝塚の男性は度胸あるな」と思った。

しかし考えれば、女性専用車両に何食わぬ顔で乗り込む男性は宝塚限定ではない。

東京にもいるだろうし、札幌や大阪にもいるだろう。

あわや「宝塚の男性」というレッテルを貼ってしまうところであった。

同じ日本人でも、このようにレッテルを貼ってしまうことがあるのだ。

外国人へはなおさら貼ってしまうであろうし、貼られてしまうであろう。

「レッテル」を貼られてしまうような時には、もちろん貼られた「レッテル」を意識した態度をとらねばならない。

しかし本来は「レッテル」などなく、一人の存在があるだけだということを、忘れないようにしたい。