星屑記

何気ないことを考えたり、語ったり。

ピザを食べると、ヴェネツィアを思い出す

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ファミレスのピザを食べた時、ふと「ヴェネツィアで食べたピザは大きかったなあ……」と思った。

向こうは基本的に薄生地なのだが、いかんせんでかい。

一枚が日本でいうLサイズくらいあって、一人で食べきるのは正直しんどいのである。

ピース売りされているものも、巨大なピザの四分の一カットで、日本のMサイズの半分くらいはあるだろう。

九月の半ばにイタリア・ヴェネツィアへ行ってから、早二か月。

ふとしたことで思い出すヴェネツィアを、みなさんにぜひおすすめしたいと思う。

なぜヴェネツィアなのか?

私のはじめての海外旅行が今回であり、イタリアであった。

とはいえ、二週間ほどの日程はすべてヴェネツィア滞在で、他の都市へは、週末ミラノに出かけたくらいである。

つまり、他の都市をおすすめしようがない、というのが主な理由である。

「水の都」と呼ばれ、毎年多くの観光客が訪れるヴェネツィアは、実際に歩かなければ魅力が伝わらない。

細く入り組んだカッレ(小道のこと)を、看板頼りに歩くこと。

意外と濁った水路を行くゴンドラからカンツォーネ舟歌)が聞こえること。

中でも魅力的に感じたのは、「人々の暮らしが見えること」だ。

今回の二週間は、ホテル滞在ではなくホームステイさせていただいた。

滞在期間に見えた「生活」という観点から、みなさんにはお話ししたい。

なぜ「生活」なのか?

結論からいえば、私たちの日常と結びつき、思い出させてくれるからである。

いくらヴェネツィアが観光都市だからとはいえ、暮らす人々、働く人々がいなければ成り立たない。

例えば、街並みを見てきれいだと感じても、写真を見返さなければ思い出すことは多くないだろう。

しかし街並みと一緒に、登下校する親子やごみを回収する業者を見ていたらどうだろう?

学校へ行く子供を見て「ヴェネツィアでは親子で登下校していたな」とか、あるいはごみ収集を見て「ヴェネツィアでは船で回収していたな」とか。

日常風景から連想して、写真を見ずとも街並みを思い返すことができる。

心に留めて思い返すには、その土地の「生活」に触れることが一番である。

ところで、「観光」であっても「生活」であっても、気を付けなければならないことがある。

なぜ気を付けるのか?

何に気を付けるかと言えば、実に単純である。

「地元住民の方々に迷惑にならないようにすること」だ。

当然といえば当然のことなのだが、少し前にこんな記事が話題になった。

ベネチア(イタリア) 12日 ロイター] - 水の都ベネチアの市民ら数十人が12日、大挙して押し寄せる観光客に日常生活が阻害され、住民が減っていると抗議するデモを行い、旗や、市街脱出を象徴するスーツケースを掲げて行進した。

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20161114/reu/00m/030/011000c#csidxfc225f102b85d4fb043e801cf444ded
Copyright 毎日新聞

 観光客がカッレをふさいでいたり、賃貸コストがあがったり、ということが書かれている。

「観光」の面だけではない。

「生活」した時、水やビスコッティといったものは、スーパーマーケットで買っていた。

お土産のパスタももちろんスーパーだ。

お土産屋や、空港より非常にリーズナブルに入手できるためである。

しかし、もし観光客が店のパスタを買い占めてしまったら?

ヴェネツィアで暮らす人々は別の店に買いに行かなければならず、とても不便だ。

街の人々がいなければ、訪れた人間は買い物もできないし、食事もできない。

お邪魔させていただいているという気持ちを忘れず、たむろや座り込みなどの迷惑になる行為を慎むことがマナーである。

まとめ

「観光」ではなく「生活」することができて良かったと思う。

どんな有名観光都市もファンタジーではなく、人々が実際に暮らし、生きているのだと実感できたからだ。

旅先で「生活」することはなかなか難しいかもしれない。

けれど暮らしている人々がいると想像することは、そう難しいことではない。

「また来たい」と思えるように、「また来てほしい」と思われるように、そんな旅行を心がけたいものである。

……というわけで、美しい写真しか見たことないみなさん。

生活臭にあふれ、それでも美しいヴェネツィアに、ぜひ訪れてみてほしい。