花を贈る人になる
突然だが、みなさんは「花を贈る」というと、どんなイベントを想像するだろうか?
母の日、誕生日、結婚記念日などなど。
なかなか現実には「情熱の赤いバラの花束を君に……」なんてことはない。
私は昨日、友人へ花を贈った。
別に友人の誕生日でもなければ、記念日でもない。
単純に「花を贈りたくなった」のである。
今日は3つの点から、人へ花を贈ることについてお話する。
なぜ花を贈るのか?
何でもない日に、誰かにプレゼントを贈る。
私は、そういう人になりたいと思っていた。
二か月前、ヴェネツィアでお世話になったホストマザーに、バラの花束を買っていった。
とても喜んでくれて、自分事のように嬉しかったことを覚えている。
――さて、プレゼントを贈るにしても、なぜ「花」なのか?
「食べ物」では好き嫌いがあるかもしれない。
「物」では整理や処分がしにくいかもしれない。
そこで、ある程度は好き嫌いもカバーでき、処分にも困らない「花」なのである。
何より花は、意外と手軽に求めることができる。
日常にちょっと華やぎをと求めるのだから、何も豪華である必要はない。
千円もあれば、数輪きれいに整えてもらうことは可能だ。
つまり、贈り物として最適なのが「花」なのである。
なぜ特別なのか?
花を贈ることは、何か特別なイメージがある。
なぜ特別かといえば、イベントごとに贈り、贈られることが多いからであろう。
ひとつ例を挙げよう。
ケーキにろうそくが立っているのは、基本的には誕生日くらいなものだ。
しかし自分へのちょっとしたご褒美に、あるいはおいしそうだったからと、何でもない日にケーキを買うことだってある。
特別なケーキと、特別ではないケーキ。
ようするに、同じことである。
記念日に贈る豪華な花束は特別な花束。
しかし何でもない日に贈るささやかな花束だってある。
花を贈ることがケーキを買うことほど身近ではないため、特別なイメージを持つのであろう。
なぜ幸せになれるのか?
花を贈ることは、別段特別なことではない。
しかし、特別なイメージがある。
このギャップが、花を贈ったり、贈られたりする人に「貴重」だと思わせ、幸福を感じさせる。
「特別」という考え方は、「貴重」という考えを生み出す。
例えば、テレビ越しに見ている芸能人を生で見ることは「特別」なシチュエーションだ。
つまり「貴重」な機会、経験である。
花は手軽で、特別なものではないのだが、特別なイメージがある限り、プレゼントにすることができるであろう。
まとめ
正直、いきなり花を贈られても困惑する人の方が多いだろう。
花瓶がないとか、飾る場所がないとか。
そんな時はコップやペットボトルで構わないから、テーブルの上に生けてほしい。
自分用に花を買う人は、あまり多くないだろう。
だからこそ、花のある風景というのを楽しみ、少しでも「いいな」と思ってもらえたら、花を贈る側としても本望である。
「褒める」って大事
まずは「褒める」
私は学生である。
そして、文芸創作ゼミに所属して、現在卒業制作に取り組んでいる真っ最中でもある。
昨日のゼミで、一人が言った。
「まずは褒めなきゃ!」
……というのも、あるゼミ生――その人はAとしよう。上のことを言ったのはBだ。
Aはファンタジーを書いているため、世界観の構築や人物が行動する理由など、決めなければならないことが多い。
で、あるにもかかわらずAの中でもあまりまとまっていないようで、毎度ゼミで議論が紛糾する。
他の人に比べて本文の進みもよろしくない状態だ。
先週、設定は不透明なものの、ようやく腰を据えて執筆し始めたところである。
そこで昨日、Aが不在の中、Bが上のことを言った。
「まずは褒めなきゃ! あれこれ突っ込んでばかりだと、『せっかく書いてきたのに』ってなっちゃうよ」
つまり、設定の不透明さはさておき、本文を書き進めてきたことを評価し、それから議論に持ち込むべきだというのである。
なるほど、ごもっとも。
というわけで、今日は「褒める」ことがなぜ大事なのか、お話ししよう。
なぜ「褒める」のか?
私は、「モチベーションの維持・向上」のためであると思う。
創作活動が好きなら、誰に言われなくともやる。それは確かだ。
しかし、投稿サイト(「小説家になろう」や「Pixiv」など)で評価されると嬉しくなり、「続きを書こう」「また描こう」と思えるのではないだろうか?
もちろん、褒められるだけではなく意見を頂戴することもあるだろう。
例えば、コメントをもらった時に次の2つのどちらが嬉しいだろうか。
「○○は詳しく書かれていて想像しやすかったです。でも、□□はちょっとわかりにくかったです」
「□□がちょっとわかりにくかったです」
おそらく、多くの人は上の方が嬉しいコメントであろう。
人間というのは、否定的な意見より、肯定的な意見の方を受け入れがちだ。
否定的な意見を伝える時には、肯定的な意見でワンクッション置く方がモチベーションの維持・向上につながりやすいのである。
なぜモチベーションを維持・向上させるのか?
結論から言えば、「結果」を出すためである。
ビジネスでは「過程」はどうあれ「結果」を出すことがすべてとされ、「結果」が評価される。
「過程」は評価する側とされる側の双方で見え方が異なり、評価しにくいものである。
「結果」は是か非か、あるいは明確な数値で示されるため、客観的に見ても異ならず、評価しやすいものである。
しかし、そうとわかっていても、できることなら「過程」の頑張りも評価してもらいたい。
「頑張ってるな」と声をかけられれば、嬉しいからさらに頑張ろうと思える。
――つまり、そこなのである。
「過程」において褒めることで、褒められた側はモチベーションが維持・向上され、「結果」を出す。
褒めた場合は、褒めなかった場合よりも「良い結果」になる可能性があるのだ。
「モチベーションで『結果』が変わるようではいけない」
確かにもっともだ。
しかし、私たちは人間だ。ロボットではない。感情がある。
いくら気にしないようにしても、感情は行動に少なからず影響を与えている。
少しでも良い影響になるように、「褒める」ことが重要なのである。
まとめ
話を頭に戻そう。
Aの場合の「結果」とはなんであるか?
卒業制作なのだから、完成させて、卒業することである。
完成させるためには、少しずつでも書き進めなければならない。
つまり、Aが本文を書き進められるだけのモチベーションを維持・向上させるために、褒めなければならない。
無論、手放しで褒めるということではない。
執筆すればその分を褒め、しなければ叱咤しなければならない。
建設的な意見をすることも重要である。
しかし人として、まずはその人を認めて、褒めることが大事なのではないだろうか。
ピザを食べると、ヴェネツィアを思い出す
ファミレスのピザを食べた時、ふと「ヴェネツィアで食べたピザは大きかったなあ……」と思った。
向こうは基本的に薄生地なのだが、いかんせんでかい。
一枚が日本でいうLサイズくらいあって、一人で食べきるのは正直しんどいのである。
ピース売りされているものも、巨大なピザの四分の一カットで、日本のMサイズの半分くらいはあるだろう。
九月の半ばにイタリア・ヴェネツィアへ行ってから、早二か月。
ふとしたことで思い出すヴェネツィアを、みなさんにぜひおすすめしたいと思う。
なぜヴェネツィアなのか?
私のはじめての海外旅行が今回であり、イタリアであった。
とはいえ、二週間ほどの日程はすべてヴェネツィア滞在で、他の都市へは、週末ミラノに出かけたくらいである。
つまり、他の都市をおすすめしようがない、というのが主な理由である。
「水の都」と呼ばれ、毎年多くの観光客が訪れるヴェネツィアは、実際に歩かなければ魅力が伝わらない。
細く入り組んだカッレ(小道のこと)を、看板頼りに歩くこと。
意外と濁った水路を行くゴンドラからカンツォーネ(舟歌)が聞こえること。
中でも魅力的に感じたのは、「人々の暮らしが見えること」だ。
今回の二週間は、ホテル滞在ではなくホームステイさせていただいた。
滞在期間に見えた「生活」という観点から、みなさんにはお話ししたい。
なぜ「生活」なのか?
結論からいえば、私たちの日常と結びつき、思い出させてくれるからである。
いくらヴェネツィアが観光都市だからとはいえ、暮らす人々、働く人々がいなければ成り立たない。
例えば、街並みを見てきれいだと感じても、写真を見返さなければ思い出すことは多くないだろう。
しかし街並みと一緒に、登下校する親子やごみを回収する業者を見ていたらどうだろう?
学校へ行く子供を見て「ヴェネツィアでは親子で登下校していたな」とか、あるいはごみ収集を見て「ヴェネツィアでは船で回収していたな」とか。
日常風景から連想して、写真を見ずとも街並みを思い返すことができる。
心に留めて思い返すには、その土地の「生活」に触れることが一番である。
ところで、「観光」であっても「生活」であっても、気を付けなければならないことがある。
なぜ気を付けるのか?
何に気を付けるかと言えば、実に単純である。
「地元住民の方々に迷惑にならないようにすること」だ。
当然といえば当然のことなのだが、少し前にこんな記事が話題になった。
[ベネチア(イタリア) 12日 ロイター] - 水の都ベネチアの市民ら数十人が12日、大挙して押し寄せる観光客に日常生活が阻害され、住民が減っていると抗議するデモを行い、旗や、市街脱出を象徴するスーツケースを掲げて行進した。
ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20161114/reu/00m/030/011000c#csidxfc225f102b85d4fb043e801cf444ded
Copyright 毎日新聞
観光客がカッレをふさいでいたり、賃貸コストがあがったり、ということが書かれている。
「観光」の面だけではない。
「生活」した時、水やビスコッティといったものは、スーパーマーケットで買っていた。
お土産のパスタももちろんスーパーだ。
お土産屋や、空港より非常にリーズナブルに入手できるためである。
しかし、もし観光客が店のパスタを買い占めてしまったら?
ヴェネツィアで暮らす人々は別の店に買いに行かなければならず、とても不便だ。
街の人々がいなければ、訪れた人間は買い物もできないし、食事もできない。
お邪魔させていただいているという気持ちを忘れず、たむろや座り込みなどの迷惑になる行為を慎むことがマナーである。
まとめ
「観光」ではなく「生活」することができて良かったと思う。
どんな有名観光都市もファンタジーではなく、人々が実際に暮らし、生きているのだと実感できたからだ。
旅先で「生活」することはなかなか難しいかもしれない。
けれど暮らしている人々がいると想像することは、そう難しいことではない。
「また来たい」と思えるように、「また来てほしい」と思われるように、そんな旅行を心がけたいものである。
……というわけで、美しい写真しか見たことないみなさん。
生活臭にあふれ、それでも美しいヴェネツィアに、ぜひ訪れてみてほしい。
起床のカギは「逆算」
私は、平日のほとんどは五時半起き、土日祝は四時半起きの生活を送っている。
「眠くないの?」と聞かれれば、もちろん眠い。
「大変じゃない?」と聞かれれば、もちろん大変だ。
しかし不可能ではない。
今日はみなさんにちょっとした起床のカギを、2つの点からお話ししよう。
そのカギとはズバリ、「逆算」である。
なぜ逆算するのか?
「逆算」とは言うが、ようは一日のスケジュールとイコールと考えて差し支えない。
例えば、次の二人の話を聞いてほしい。
A子「今日は起きたらごみを出して、洗濯をして、それから掃除もする。終わったら買い物にも行かなくちゃ」
B子「今日は八時半までにごみを出す。それから洗濯をして、昼までに掃除を済ませる。タイムセールの四時に買い物に行く」
どちらの方が、より具体的に一日のスケジュールがイメージできただろうか?
B子は「八時半までにごみを出す」「昼までに掃除を済ませる」「四時に買い物に行く」など、行動を起こす時間をある程度定めている。
明確な時間を決めておけば、ちょっと休憩を挟んだときでも、「あと一時間で昼になるから、掃除を進めなきゃ」と考えられる。
一方、A子は掃除が終わったら買い物に行くとしている。
しかし時間を定めないせいで休憩が長引いてしまい、掃除に時間がかかってしまった。
掃除が終わるころに、「もう四時! タイムセールだわ!」と慌てて出かけるかもしれない。
みなさんも読書や勉強、あるいは家事をしていて「もうこんな時間! 寝なくちゃ!」と思ったことがあるのではないだろうか?
起床時間を設定し、そこから逆算して就寝時間を定めれば、この事態を避けられるはずである。
つまり、「逆算」することで慌てないスケジュールを立てることができるのである。
なぜ目覚ましをかけるのか?
みなさんは寝る前に目覚ましをかける方がほとんどであろう。
なぜ目覚ましをかけるかと言えば、望んだ時間に自然と目が覚める人は少ないからである。
あるいは、家族の誰かが起こしてくれるのならばともかく、一人暮らしやいい年をした人は自力で起きなければならない。
起床にはこうした具体策が必要だと、私は考えている。
例えば私が取っている具体策の一つは、「目が覚めたら時間を確認する」だ。
窓の外がどんなに暗くとも、目が覚めたらスマートフォンで時間を確かめる。
もしかすると自分が目覚ましに気付かなかったり、無意識に止めてしまったりした可能性もあるからだ。
たいていは起床時間まで余裕があるのだが、何回かに一回はそれで飛び起きることがある。
つまり、起床するために必要な具体策の一環として、目覚ましをかけるのである。
私の場合
さて、上記2点をふまえた私の話である。
五時半に起きる日と四時半に起きる日があるが、六時間以上の睡眠を心がけているため、そこから逆算して就寝時間は午後十時に設定。
かける目覚ましは一つだが、地味な工夫がある。
それは「起床時間の少し前に目覚ましを設定すること」である。
なぜなら一度の目覚ましくらいでは起きたくないからだ!
そこで、半に起きたい時は十五分に設定する。
目覚ましが鳴ると、そこから五分ごとにスヌーズをかける。
一回、二回、三回、とスヌーズが三回鳴ったところで起床。
ちょうど半に起きることができるという寸法である。
これならば布団でごろごろすることもできるし、複数回覚醒を促されることで起きやすい。
これも起床時間から「逆算」して考えた具体策である。
まとめ
「逆算」することが起床のカギであるお話をさせていただいた。
無論、意志だけではどうにもならないから具体策を講じているのだが、そもそも起床する意志がなければ元も子もない。
「早起きは三文の徳」ということわざがある。
説教を垂れるつもりはないが、ゆっくりできる朝食や、幻想的な色を見せる朝焼けは、これから始まる一日をちょっとハッピーに感じさせてくれると思う。
「昼起きサイコー」ではなく、「早起きも悪くない」と思っていただければ幸いである。
愛はカネを回す!
昨日、ふくやま美術館でとある展示を見てきた。
「阿部家ゆかりの日本刀ー小松コレクションと五箇伝の名刀ー」である。
私は刀剣乱舞ONLINE(DMM)のプレイヤー、いわゆる審神者であり、ゲームに登場する刀を見に行ったのである。
見に行ったのは、江雪左文字と明石国行。
(他のお目当てもあったのだが、今回の話には関係ないため割愛する)
私の他にも、年若い女性の姿が多く見られた。
「刀剣乱舞は、経済を回してるな~」と私は思った。
みんな真剣に、かつ楽しげに観賞していると感じられた。
一方、ゲームをきっかけに日本刀を見に行くなど、浮ついていると思われないか?
そう考えてしまう人もいるかもしれない。
しかし私は、まったく気にしなくていいと思う。
今日は、ささいなきっかけでも経済を回すことは良いということについて、3つの疑問点からお話しする。
なぜささいなきっかけでもいいのか?
ぶっちゃけてしまえば、きっかけとは往々にしてささいなものである。
なぜなら、興味の対象は人それぞれ異なるからだ。
ささいなきっかけで得た知識も、すでに知っていることとリンクすれば深みのある知識となる。
例えば、私が刀剣乱舞を始めたきっかけは、「日本刀ってかっこいいよね。漫画にも出てくるし」というものであった。
「獅子王」という刀剣男士(キャラクター)を手に入れた私は、ある逸話を耳にする。
――かつて鵺(ぬえ)という化け物を退治した源頼政に下賜された刀、それこそが「獅子王」である。
一部の人にはお馴染みなのだが、私は無類の妖怪好きであり、鵺もなじみ深い。
「獅子王って、鵺と関係あるんだ!」
……似たような経験を、みなさんもお持ちではないだろうか?
つまり、知識となるのならば、きっかけはどんなにささいなものでも構わないのである。
なぜ好きなものばかり消費するのか?
こんな話を聞いたことはないだろうか。
ライブや舞台には10,000円出すが、会社の付き合いで4,000円は出したくない。
私には会社の付き合いというものがよくわからないのだが、数時間の娯楽費に消えるのと、一夜の飲食費に消えるのとでは、おそらく前者を選ぶだろう。
後者の費用が2,000円になったとしても、正直まだ前者に軍配が上がる。
なぜかといえば、実に単純明快である。
多くの人は「自分のための人生」を生きているからだ。
自分の望むものを手に入れるために働き、自分の好むもののために時間を割く。
もちろん理由は他にもあるだろうが、要は「好きだから」お金を払うのである。
つまり、好きなものばかり消費するのは自然な成り行きなのである。
なぜ経済を回すことは良いことなのか?
経済に明るい人間ではないので、難しい話は置いておこう。
例えばアニメ。続きを見たいから、DVDやBlu-rayを買う。
例えば漫画。打ち切りされたくないから、雑誌を買ってアンケートを送る。
――簡単に言えば、次のコンテンツにつなげるためである。
旅行にしても、新しいパンフレットを刷るにもお金がかかる。
料理にしても、作るには材料を買うお金が要る。
現実問題、好きなものを継続させるには、消費しなければならないのだ。
必要のないテレビなどを買う必要はない。
そのお金で料理を食べれば、そのお金が入った人がテレビを買うかもしれない。
経済というのは、一人一人が小さな消費を行うことで、歯車のように回っているものだと思う。
誰がどこの経済を回しているかなどわからない。
だからこそ、自分は自分の好きなものを消費しなければならない。